2025年3月26日『新渡戸稲造記念センター』から『順天堂大学』に寄りZoom『南原繁研企画委員会』に出席である(添付)。 筆者が、小学生の卒業式で聴いた『ボーイズ・ビー・アンビシャス』(boys be ambitious)(1877年 札幌農学校のクラーク博士:1826-1886の言葉)が、内村鑑三(1861-1930)と新渡戸稲造(1862-1933)へと導かれ、英文で書かれた『代表的日本人』(内村鑑三著;1908年)と『武士道』(新渡戸稲造著;1889年)は、若き日からの座右の書となった。 2007年から『代表的日本人』と『武士道』の読書会を毎月、継続している(添付)。
筆者は、南原繁(1889-1974)が東大総長時代の法学部と医学部の学生であった二人の恩師から、南原繁の風貌、人となりを直接うかがうことが出来た。 南原繁は、『高度な専門知識と幅広い教養を兼ね備えた具眼の士』と教わった。
南原繁は、内村鑑三と新渡戸稲造から大きな影響を受けた。 新渡戸稲造は、日露戦争後7年間、第一高等学校の校長を務めているが、南原繁は新渡戸稲造が校長時代の一高で学び、影響を受けた。 一高時代、南原繁は内村鑑三の『聖書之研究』を読み始め、東大法学部に入学後、内村鑑三の聖書講義に出席するようになった。 東大卒業後の南原繁は、内務官僚から学者に転進し、ヨーロッパ留学を経て東大教授となり、政治学史を担当、政治哲学を深めていき重要な著作を発表する。 そして戦争中は社会的発言は意識的に控え、ひたすらに学問に打ち込む。 その態度をして、『洞窟の哲人』と呼ばれたほどである。 しかし1945年3月10日の東京大空襲の前日に法学部長に就任、日本の敗色濃厚となった中で、法学部の有力教授たちと終戦工作を相談し、重臣らと接触した。 そして戦後、東大総長に就任、国家の再建を呼びかけ、戦後改革の理想を掲げて、ことに教育改革に主導的役割を果して行く。
筆者は、2004年にスタートした『南原繁研究会』【初代代表、鴨下重彦先生(1934 -2011、東京大学名誉教授、国立国際医療センター名誉総長)、第2代代表、加藤節先生(成蹊大学名誉教授)】の3代目の代表を2019年南原繁生誕130周年を祝し、仰せつかった。『人生の邂逅の非連続性の連続性』である。
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