最近、小学校の授業を依頼されることがあり、小学校時代が鮮明に思い浮かぶ。 筆者の故郷は島根県簸川郡(現在 出雲市)大社町鵜峠である。今は、廃校になった鵜鷺(鵜峠と隣の鷺浦=鵜鷺)小学校の卒業式の来賓の挨拶『Boys, Be Ambitious !「少年よ、大志を抱け!」』(1877年札幌農学校のウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)博士:1826-1886)を強烈に覚えている(添付)。 筆者の人生の起点であると言っても過言でなかろう。 その後、京都での浪人時代に 出会った英語の教師でもあり、牧師でもあった先生(東京大学法学部の学生時代に南原繁に学ばれた)からの、人生の機軸となる 南原繁(1889-1974)との間接的な出会いが与えられた。 そして、「内村鑑三(1861-1930)& 新渡戸稲造(1862-1933)& 矢内原忠雄(1893-1961)」へ導かれた。 英文で書かれた『代表的日本人』(内村鑑三)と『武士道』(新渡戸稲造)は、若き日からの座右の書である。 この2冊の読書会を2007年から、毎月定期的に行っている。
クラークは、1852年にアマースト大学教授となり、3つの専門(化学、動物学、植物学)を教える。「これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには 新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。」と、そして、マサチューセッツ農科大学学長に就任した。 アマースト大学の日本人留学生が、新島襄(同志社大学の創始者;1843-1890)である。 新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年に札幌農学校教頭に赴任、翌年1887年に離日した。 「帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、その後、企業が破産し、1886年3月9日失意のうちに59歳でこの世を去った」とある。 内村鑑三は、「札幌農学校の二期生が札幌に到着した時、クラークは既に本国に去っていた。アマスト大学留学時に、クラークと会った。」(内村鑑三「クラーク先生を語る」)と、 また、「クラーク氏を、余は彼の米国アマストのホームにおいて三、四回、訪問せり。・・彼は余がアマスト在留中、この世を去れり。 しかして彼の牧師なりしジッキンソンといえる人は、余に直接語りて言えり。『余はクラーク氏の死の床に臨めり。しかして彼は余に幾たびか告げていわく、余の生涯の事業にして一として誇るに足るべきものあるなし。ただ日本札幌における八ヶ月間のキリスト教伝播こそ、余が今日死に就かんとする際、余を慰むるに足るの唯一の事業なれと。君、願わくはこの事を君の本国に伝えよ』と。」(「聖書之研究」)と述べている。 クラークは帰国した後も 札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられる。 「私が遥々この地へやってきたのもーー 有意な人間に育て上げ、日本のために御役に立つ者にしてみたい。」と「学生の自律的学習」を促した「高邁な教育観の持ち主」であったであろう! いまこそ、「クラークの教育観」の復習の時である。
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