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執筆者の写真樋野 興夫先生

第197回 見上げても見飽きない 〜 真実は輝く 〜

 2022年5月の連休中である。 今年は、「ゴミの山」の自宅の整理整頓の日々である。 筆者は、若き日から職場も自宅もゴミの山で過ごしてきたものである(添付)。 筆者は、浪人時代、京都で、今は亡き先生(牧師)に出会った。 その先生は東大法学部の学生として南原繁(1889-1974)から直接教わった人で、南原繁総長時代に卒業した人である。 「真実は、ゴミの中に輝く」とも学んだものである。 南原繁の共通の師である内村鑑三(1861-1930)と新渡戸稲造(1862-1933)のことも知るに至り、彼らの著作にも親しんで約50年にもなる。


2001年、北海道大学創立125周年、且つ「クラーク博士」来日125年で北海道大学での記念シンポジウムで講演をする機会が与えられたのも不思議な巡り合せである。 「…いまや進歩した文明と大衆社会の時代において…まず同胞や社会に与える効果について考えやすい。 そのために、自ら究めるべきをも究め尽くさないで、人類や大衆、いままた国家の名において呼びかけるものに、直ちに凭りかかる傾向がある。…」(南原繁)の文章が妙に現実昧を帯びて筆者に追ってくる今日この頃である。


現代のような変化の時代、人の目が気になる時代、一人の人間として「目的」&「ビジョン」をじっくりと掘り当てることは、実際は容易なことではない。 「ああ、ここに おれの進む道があった!」(夏目漱石『私の個人主義』)と「天職」を見つけたいものである。 人の目を気にしながら、自らの歩むべき道を決めかねている現代の日本人には、迷える子羊である自覚、閉塞感が多かれ少なかれある。「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ書12章2節)という言葉を心せねばなるまい。


癌(細胞)の進展の如く、人の一生には「始めがあり、中があり、終がある」(癌は開いた扇のようである)。 民族、国家においてもこれと同様なことが言えるのは歴史が示す厳然たる事実である。 時局や個人の境遇の変化にあまりに一喜一憂すれば心労となり、押しつぶされて「見上げても見飽きない楡の木」(新渡戸稲造)にはなれない。 日々勉強である。



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