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執筆者の写真樋野 興夫先生

第215回 『新島襄と内村鑑三の魂』 〜 「過渡期の指導原理と新時代の形成力」〜

 2022年9月8日、群馬県高崎市で、講演『群馬が生んだ新島襄と内村鑑三の魂』を依頼された(添付)。 今回、以前に『新島襄海外渡航の地碑』のある函館を訪問したことが、鮮明に蘇ってきた。


新島襄(1843-1890)は、当時(1864年)禁止されていた海外渡航(アメリカ合衆国)を思い立ち、開港地の箱館に行く。 箱館に潜伏中、ニコライ・カサートキンと会う。 ニコライ・カサートキンは新島襄から日本語の手ほどきを受け、密航に協力したと言われる。 箱館港から米船ベルリン号で出国する。 上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長 Horace S. Taylor に会う。 1865年7月Boston着。 ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、Phillips Academy に入学。 1867年に Phillips Academy を卒業。 1870年に Amherst College を卒業(日本人初の学士の学位取得)。 Amherst College では、後に札幌農学校教頭となる William Smith Clark(1826 -1886)から授業を受けた。 William Smith Clark にとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは、来日することとなった。 そして、密航者の新島襄が、初代の駐米公使となった森有礼(1847-1889)によって正式な留学生として認可された。 1872年、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会い、そこで、木戸孝充(1833-1877)は、新島襄の語学力に目をつけ通訳者として、使節団に参加させたのである。


内村鑑三(1861-1930)は、無教会主義を提唱して非戦論を主張した。 札幌農学校の第2期生として入学し洗礼を受ける。 同級生に新渡戸稲造(1862-1933)がいた。 卒業後、北海道開拓使の御用掛などを経てアメリカに留学する。 帰国後、新潟県の北越学館の教頭に赴任する。 北越学館は県内初のキリスト教の私立男子校だったが、経営方針をめぐって学校側と対立する。 対立は生徒も巻き込み辞任するが、雑誌『日本人』などは内村鑑三を擁護する記事を掲載した。 その後、第一高等中学校の嘱託教員になる。 しかし、教育勅語奉読式で明治天皇の署名に奉拝しなかった。 これを不敬事件としてマスコミが批判する(内村鑑三不敬事件)。 不敬事件はキリスト教と国体の問題に進展し辞職する。 内村鑑三とともに批判を受けたかず夫人は、インフルエンザと疲労で死去する。 不敬事件で教員の道を閉ざされ、伝道者の活動をはじめる。 1901年、足尾銅山の鉱毒の反対運動に参加した。 そして、日露戦争の開戦時には非戦論を主張する。 なお、1894年に発表した著書『代表的日本人』は英文によるもので、中江藤樹や上杉鷹山をはじめ、日蓮、西郷隆盛、二宮尊徳を通じて、日本と日本人の価値を西欧世界に紹介した。


『群馬が生んだ新島襄と内村鑑三の魂』は、『速効性と英断と胆力』で、『火焔のうちにある燃料の如く自ら燃えよ!』の実践であろう。 まさに、『「過渡期の指導原理と新時代の形成力」を求めて〜』の復習の時である。



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