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第358回 『柔らかい挨拶』 〜 『歴史上の人物の学び』 〜

執筆者の写真: 樋野 興夫先生樋野 興夫先生

 2024年6月19日は、 『順天堂大学(御茶ノ水)―>新渡戸稲造記念センター(中野) ―> 宮川庚子記念研究財団(南青山)の旅』であった。 会議の前に『明治神宮外苑、外苑いちょう並木、青山霊園(墓地)』を散策した。

 

青山霊園正面入口で、『乃木将軍墓道』の石標を観た。 乃木希典(1849年12月25日 〜 1912年9月13日)は、【元長州藩士、明治維新後は陸軍で台湾総督などを歴任、日露戦争では第三郡司令官として旅順攻略という戦果をあげた。 乃木将軍は、明治天皇崩御後、その後を追って殉死したことで有名である。 殉じたのは希典本人のみならず、静子夫人と共に、しかも、その方法は日本武士の古来のしきたりに則った壮絶な切腹であったという。】と記載されている。

 

また、【日本のみならず、海外のメディアでも、『日本において、その偉大さを負っている精神が依然として生き続けていることの驚くべき証左である。(中略)西欧世界は、その意味を残りなく汲み尽せぬまでも、静かに頭を垂れて敬意を表さねばならない。 故乃木伯爵のような人々が明治の時代をつくったのであり、この時代は、乃木伯爵がその身を献じた大帝(明治天皇)の崩御とともに、名実ともに過ぎ去ったのかも知れないのであると称賛されたという。 こうして乃木将軍は、第二次大戦敗戦に至るまでの日本において最も重要な庶民の英雄の一人となった。』】と紹介されている。

 

筆者は、以前に【『新渡戸稲造(1862-1933)は、乃木希典と交流がありました。 明治天皇の崩御の際に殉死した乃木を、新渡戸は著書の中で称えました。』&『当時、学習院委員長であった乃木希典は、第1高等学校の校長の新渡戸稲造を訪問した。 乃木希典の もの腰の柔らかい挨拶に、新渡戸稲造は驚いて席を立った。』】と聞いたものである。

 

今回は、『歴史上の人物の原点回帰の学び』となった。

 
 
 

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