2024年7月29日新渡戸稲造記念センターから、恵泉女学園の理事会に赴いた。
筆者は2021年7月1日、新渡戸稲造(1862-1933)から学んだ河井道(1877-1953)が、1929年創立した恵泉女学園の9代目理事長を拝命することになった。
河井道は自著『わたしのランターン』(1939年)に【ここまで、わたしは、私のランターンをかかげてきた。 時がくると、それは別の手へとひき継がれて、さらに先へと運ばれていくであろう。 私たちの魂の『太陽』が、この世界の面から、うれいと闇の跡をひとひらも残さず追いはらうまで、このランターンが、芯を切りととのえられ、燃え続けていくように、わたしはそれのみを願っている】と記述している。 女子教育に理解を示した新渡戸稲造(東京女子大学 初代学長:5000円札 添付)が援護した河井道(恵泉女学園 創立者)、津田梅子(1864-1929; 女子英學塾 創立者、5000円札 添付)、安井てつ(1870-1945;東京女子大学 第2代学長)に共通するのは『種を蒔く人になりなさい』の実践であろう!
河井道は、1887年スミス女学校(現在:北星学園 女子中学高等学校)(北海道札幌市)に入学し、当時札幌農学校で教えていた新渡戸稲造と邂逅する。 1896年上京し、津田梅子に学ぶ。 1898年 新渡戸稲造夫妻に伴われて渡米し、 ブリンマー大学に入学する。 河井道は、新渡戸稲造に、プリンマー大学の入学、卒業を援護してもらっている。
河井道は学校設立の為に、国際連盟事務次長(1920-1926)の新渡戸稲造に相談にジュネーブにわざわざ行った。 その時に新渡戸稲造は『君はこれから女学校でも創立すると、その経営に苦しんで終わり、理想とする教育には手を下しえないで果てるだろう。 ほかにやる用事はたくさんにあるから、思いとどまれ』(『新渡戸博士追悼集』の河井道の文章)と言っている。 しょげて日本に帰国した河井道であったが、あきらめきれなかった。 丁度1928年、新渡戸稲造は 台湾在住の男性からの現在の700万円の寄贈を辞退して、台湾在住の男性に『資金繰りに困っている河井道に寄付金として送るよう』に伝えた。 そして1929年恵泉女学園の創立となった。 不思議なタイミングである。
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