第512回 『尊重する繋がり』〜 心遣い 口説き 説得 〜
- 樋野 興夫先生

- 7月25日
- 読了時間: 2分
筆者は 2026年7月24日病理医として 定例の『病理組織診断業務』を行った。その後、池袋の東武デパート7F のスターバックスで、台湾から来日中の農学博士 王良原(OH RYOGEN)先生と面談した。 『新渡戸稲造(1862-1933)と台湾の繋がり』がテーマとなった。 【新渡戸稲造は台湾では『台湾糖業の父』とよばれており、台湾の高雄市内にその偉業を讃えて銅像が建てられました。】と謳われている。 台湾で、公開シンポジウム【新渡戸稲造と台湾の繋がり】が、企画される予感がする。
【第4代台湾総督の児玉源太郎(1852 - 1906)と民政長官の後藤新平(1857 - 1929)は、植民政策の中心を産業振興に置き、その中心に糖業奨励を推進することにして、台湾に新式製糖会社を設立することを企画した。 その立役者になったのが、旧5千円札(添付)に肖像が描かれていた新渡戸稲造である。】 まさに『住民の利益を尊重する』が、『新渡戸稲造の精神』であろう!
【新渡戸稲造は、岩手県盛岡に武士の子として生まれ、札幌農学校二期生として入学している。 同級生には広井勇、内村鑑三、南鷹次郎、宮部金吾などがいる。 1884年に、広井勇の渡米に刺激を受け、23歳で米国へ渡った。 その3年後にはドイツに留学して農学を学び、日本で最初の農学博士号を得ている。 ドイツからの帰途、教会で知り合った米国人のメアリーと結婚した。 1891年には札幌農学校の教授として赴任するため帰国した。 ところが、夫婦ともに体調を崩したため農学校を休職して、米カリフォルニア州で養生していた。 静養中の1900年に書いた『武士道』は、ドイツ語の後、フランス語翻訳されたのを皮切りに次々と世界各国で翻訳され、新渡戸稲造の名前は国際的に知れ渡った。 後藤新平は、同じ岩手出身というよしみもあり、早くから新渡戸稲造を総督府技師として招聘しようとするも『身体が弱いので』と断わられ続けた。 しかし、2年がかりで口説き『1日1時間の昼寝の時間を約束する』という条件を付けて 新渡戸稲造を説得。1901年に札幌農学校を辞職した新渡戸稲造は、39歳で台湾総督府の技師として赴任した。 総督府の執務室に入った新渡戸稲造は、昼寝用のベッドがすでに置かれているのを見て後藤新平の心遣いに感涙したという。】とHPに記載されている。 【今、再び 新渡戸稲造】(添付)の時代的到来であろう!







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